008


[働けば自由になれる]


[死の壁]


[ビルケナウ]


[死の門]

T:「何処...?」
コシツェから夜行列車に乗ってポーランドに再入国。途中叩き起こされて手荒いパスポートチェックを受けたものの、睡眠十分でクラフク中央駅に降り立った。早々に宿泊先を決め、再び中央駅に戻った彼は、駅前のバスターミナルでオシフィエンチム行きのバスを探していた。駅舎の中にあるチケット売り場で乗り場と時間を聞いてチケットを買い、やってきたバスに乗り込む。彼は走り出すバスの中でガイドブックを開き、これから向かう場所についての記述を読み返していた。オシフィエンチムはドイツ語名でアウシュヴィッツという。灰色の雲が空を覆っていた。
「ARBEIT MACHT FREI」
(働けば自由になれる)
なんとも皮肉な文字が掲げられた門をくぐって中へ入って行く。囚人棟の中では、ここで何が行われていたかを示す数々の展示が行われていた。大きなガラスケースの中には、おびただしい数の囚人の生活用品が無造作に放り込まれている。この日は5月6日で、60年と1週間前の1945年4月30日にはヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツが無条件降伏正式文書を提出している。彼は特にそんな時期を狙ってこの地に訪れたわけではなかったが、予想以上に人が多いと感じたのは、この年のこの時期だったからかもしれない。六芒星(ダビデの星)の入った国旗を手に持ったり、マントのように体にまとった人々の集団が目立つ。銃殺のために使用された「死の壁」に花を、死体を焼いたとされる焼却炉にロウソクを手向けていた。彼等は「観光客」ではなく「巡礼者」である。
T:「日本人ですか?」
3kmほど離れた第2収容所(ビルケナウ)へ向かおうとしていた。別に歩きでもいいと思っていた彼だが、朝同じバスで見かけた東洋人がタクシー乗り場に立っていたので声をかけた。男は中国人だという。日本では連日のように中国の反日デモや日本製品不買運動、日本車や日本食レストランのガラスが割られたなどの話題がニュースで流れていたが、この男は米国西海岸で働いていて休暇でやってきたと言う。最近は中国人の団体旅行客を観光地で多く目にするようになってきたが、個人旅行者というのはまだまだ少なく、滅多に会う事はない。流暢に英語を使いこなし、身なりのよいやり手のビジネスマンといった感じのこの男もビルケナウへ向かうと言うことで一緒に行く事になった。が、タクシーはなかなかやってこない...。
T:「一緒に乗ってってもいい?」
先に待っていた女性二人が、やっとやってきた1台のタクシーに乗り込もうとする。駆け寄って声をかけるこの日本からやってきた男の図々しさに、中国の男は少々飽きれた表情を浮かべていたが、女性二人の別にかまわないという合図で一緒に乗り込む。運転手は困ったものだという顔をしながら、ギアを入れてアクセルを踏む。中国の男は当然断られると思っていたようだが、だいたい同じスタイルで旅をする者どうしでは、このような申し出を断る事はない。暗黙のうちに相互の助け合いシステムが存在する。それはこうした旅の中で、問題の大小は別として助けられた経験が無いというのはまずありえないというところから、各々が自然と身に付けて出来上がっているものだ。聞けば彼女達もタクシー乗り場で会っただけで、それぞれに一人旅を楽しんでいる最中だと言う。
T:(第二次世界大戦か...?)
こっちもそれぞれ一人旅だということで、会話に花が咲く。助手席に乗った若い方の女はフランスからで、後部座席の奥に座ったもう一人の女はドイツからとのことだ。つまりはフランス、中国、ドイツ、日本ということになる。なにもこんなところでこの組み合わせもないだろうと、彼はいらぬ想像をしていたが、そんな不謹慎なことを口に出すわけにもいかず、笑いを堪えていた。窮屈そうに後部座席の中央に座った中国の男は、こうしたシステムに慣れていないようだったが、そんな状況を楽しんでいるようだった。自己紹介もひと段落したころ、タクシーはビルケナウ前につけて止まった。代金の清算をすませた後、別れてそれぞれに行動を開始する。必要以上に行動を共にしないというのも暗黙のルールかもしれない。
T:「じゃあ、よい旅を...」
彼は真っ先に「死の門」と呼ばれたゲートの上にあるSSの中央衛兵所の塔に上り、収容所の全体を見渡していた。広大な敷地に無数のバラックが整然と並んでいる。有刺鉄線によっていくつかの区画にわけられていた。外からこのゲートをくぐって鉄道のレールが一直せんに引き込まれている。その線路の先にはナチス政権下犠牲者国際記念碑がある...。

この3日後、ロシアの赤の広場では世界各国の要人を招いて対独戦勝60周年記念式典が行われていた。彼はホテルのレストランで朝食をとりながら、この模様を伝えるテレビを眺めていた...。


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